『火垂るの墓』の3つの解釈

こんにちは、今井です。

『火垂るの墓』

というアニメ映画は1988年の作品で、
ボクは中学生でした。




その時に見た印象は、

ただ、「かわいそう」「悲惨だ」でした。

これが第一印象です。






かなり大人になって見てみると、
見え方が変わってきました。


「なんであんな無謀なことするんだろう」

「もっと周りに感謝して、
うまくやっていけば死なずに済んだのに」


主人公の清太はどうすれば良かったのか?
みたいなことを考えました。








それからまた月日が流れて、
また印象が変わりました。


「ああいう生き方しかできな人もいるよな」

「自分でもめんどくさい人間と、
思いながら生きてるんだよな」


と。






高畑監督は、


「周囲の人々との共生を拒絶して社会生活に
失敗していく姿は現代を生きる人々にも
通じるものである」


「清太は節子と2人きりの『純粋な家族』を
築こうとするが、そんなことが可能か、可能
でないから清太は節子を死なせてしまう。
しかし私達にそれを批判できるでしょうか」


と語っているそうです。
(Wikipediaより)





みんながみんな合理的に考えらえる
わけではないんですよね。


もしそうであれば、ボクのような仕事は、
あんまり必要ありません。

「ビジネスとはこうです」
「集客とはこうです」
「はい、言われた通りにやって下さい」

で済みますからね。



なかなか理屈通りには出来ないから、
寄り添う役割の人が必要なわけです。

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